寸止め海峡

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US4カ月目にして気づく自分という虚構

USに来て4カ月

 

更新が途絶えていたのは日本語でモノを書くと英語学習に悪影響を与えるような気がしたからだ。

 

そんなこんなで日本語を忘れようと日々を過ごしていると

ふと自分が時々どこかへ消えていく気がした。

 

 

これについて少し考えてみると

 

「自分」という虚構性に言語の観点から改めて気が付いた。

 

そもそも人に備わっているという「理性」というものは

 

その人固有の絶対的なものだと思っていたんだけども

 

それは実は相対的なものだったのだ。

 

例えば私は時々ナチュラルに英語で物事を考えることができる。

 

その時に頭の中に日本語では表現できない自分の中での独創的なアイデアが存在していることに気付く

 

それも「理性」だ。

 

でもそれは日本語でのみ考えていた時の私の「理性」とは異なる。

 

少なくとも私にとっては、それまで自己と同一視していた「理性」は

 

思考する言語ごときで変化するもろいものだったのだ。

 

となると自己のもろさに気づく。

 

言うまでもなく肉体は日々変化していく

 

細胞は分裂を繰り返し、日々体は参加し朽ちていく

 

そしてメンタルさえも本質を自分の内面から見つめることはできない。

 

コギトエルゴスム、

 

考える自己は絶対的に存在しているとしても

そのことは自己を自分が同定できることを意味していない。

 

私は今までの教育の弊害で物事に絶対的な正解があると考えていたけれど、

 

この現象は私にとってますます「絶対的真実」の存在への疑念を強めることになる。

 

 

 

 

ここから話は飛躍するが、この事実は私を更に生きやすくする。

 

人とコミュニケーションするときに僕はいつも最適解を探そうとしてきた。

 

交渉などではなく、世間話の次元で。

 

だからすごく人と話すのは疲れる。

 

最適解なんてない、絶対的な自分なんてない

 

心を開いて思うがままに話していいんだと

 

いままでの試みを諦めて、私はますます気持ちが楽になるような気がする。

 

こんな考えすらも日本語で表現する中で私の信じる本当のideaはdistortされていると感じる、しかし私はそれを知ることはできない。

 

極端に言ってしまえば、世の中は材質のわからないフィルターばかりなのである。

 

自分の意見を深めるのも大事だが、それ以上に自分の意見がそれらのフィルターをどのようにすればすんなり、そのまま通過できるように伝えるか考える方が浮世では重要なのだなと思わされるSan Francisco の9月末であった。