寸止め海峡

政治・アカデミズムから今日のオカズまで

私が考察する際の立ち位置について

突然であるが、私は知人であろうと無かろうと、結構議論を吹っ掛けるたちの人間である。

もちろん、あくまでこれは他者との比較の中でしか論じられないが、身の回りに理屈っぽい人間がたくさんいた環境の中で私は輪を掛けて議論好きだったからまあ、議論好きと言って差しさわりは無いだろう。

 

そんなこともあって、よく姜は理屈っぽい、斜に構えているなど非難されるのだが、

それに関して自分にも思うところがあり今回自分の立ち位置についてまとめようと思う。

 

基本的に私の思考の根本は以下のポイントで説明できる

⓪真理の存在を信じている

①不可知論

②弁証法的思考

③対話のアプローチを好む

④イデオロギー不在

いずれもなんか哲学っぽいとか言われそうだが、まあトピックがそっちよりなのでご勘弁。

 

まず最初から矛盾をはらんでいる⓪①だが、

私は根本的に物事の真理(科学的事実、形而上学的考察など)全ては究極には人間には完全に理解しえないものであるという立場をとっていると同時に、人間を超えた客観的な存在として真理が存在していると考える立場である。

不可知論者は全てが分からないという点であらゆる事物にシニカルな立場をとりがちであるが、⓪を信じているが故に私は絶妙なバランスの上に成り立っている。

そして、同時に人間から見えるものは全て人間の認識を通してゆがめられているモノであるという前提を置いている。

そのうえで、各人同士で矛盾しあう意見を更に上の次元で融合させる(止揚)ことで心理に近づけるのではないかと考えている。これがいわゆる弁証法的アプローチ。ただ、これはすべての話で使えるわけではないので、そこが難しい。

このようなアプローチを好むが故に私は対話によってしか本来の思考はできないと考える。自問自答は自己の中で矛盾した対立意見のスパイラルを克服できないと経験的に学んだからである。

僕が議論好きなのはこのせいであると思っています。

 

最後にイデオロギー不在、

本当のことを知りたいと思い続けている以上、

現段階での強固なイデオロギーを持てないという特性があり、

そのくせに国際関係論とか政治系勉強してたからソッチの意見はグラングラン。

 

基本的に議論は相手の意見を否定するためのものではなく、意見を戦わせるものでもなく、共通のコンセンサスを構築しながら互いの意見を高めていくプロセスであると考えます。

はい、こんな感じです。

こんなめんどくさい僕で良かったらお話ししましょう!!

 

 

(追記)

・真理の存在を信じる立場は「確固たる答えが存在していた日本における教育制度」の影響が大きいのかもしれない。現実として、公共政策・今夜のおかず・誰を指名するか、、、答えのない問題は多数存在する。今まで論じていた次元とは違う話であるが、これはけっこう大きい気がする。

・イデオロギーは議論で獲得するのか問題は無視できない。

 政治的立場というものは生まれ・社会での抑圧・問題意識など現実での経験に深く依存するという観点もあり、その点では現代の日本社会が政治に無関心なのはその事象自体が更に無関心を促進するという点(政治的な立場を固めるような経験を積みづらい)で負のスパイラルが発生していると言えるかもしれない。